土曜日, 3月 31, 2012

平成24年度米における生産数量目標及び作付面積目標

2012年3月やっと農家になれたみたいだ。1994年3月に福岡に転居して18年が過ぎた。今の場所に住まいを持ち耕作面積を広げて15年が経った。
2012年3月14日付けで「平成24年度米における生産数量目標及び作付面積目標について(通知)」という農協組合長と市長の連名文書が届いた。これは、水田面積が約6000平米、水稲作付面積約3000平米で作付率約50%にして欲しいという減反達成に向けた依頼だ。
現在の日本の農家では水田耕作面積の半分しか米をつくれないということを知った。水田は灌漑用水を使わなければ維持出来ないから、孤立した水田でない限り地域の和を乱す事は難しい。日本の農業政策によって「米を作れない水田が、地域によっては50%も存在する」ことは、耕作放棄地が増えていることと併せて大きな問題だ。
2012年から米を作ろうとする文字通り「新米」だから、まず経験を積むことから始めたいと思う。

火曜日, 3月 06, 2012

何故「それはスポットライトではない」を聴き続けるのだろう

少し暖かくなって、そこここに春の気配を感じる事ができる今日なのだが、なにか活動的になれない。昨日からMP3TUBEで浅川マキーそれはスポットライトではないを聞いている。
日常は何事もなく変化しながら過ぎて行く。しかし止まったままの時代が、日常の下に敷き込まれているのが、つくしが頭をもたげるように、寒桜のつぼみが膨らむように、違和感を感じさせるようなのだ。
一つはベトナム戦争だ。それから絶え間なく続く殺戮の時代が、新しい不幸な出来事に敷き込まれていく。
そして311FUKUSHIMAだ。かつて公害という企業による化学汚染が蔓延し、世界に拡散した。これは企業が資金を惜しまなければ技術的に再発は押さえられた。ところが資金と技術ではどうすることもできない、そう時間だけにしか解決できない環境汚染が、殺戮の高度化を維持する為に引き起こされた。
かつての東大全共闘議長山本義隆「福島の原発事故をめぐって」みすず書房は、アメリカのマンハッタン計画で原爆が開発された時から、核兵器と原子力発電は表裏一体の関係だったことを強調している。
そうなのだ、アメリカの言いなりになって消費の拡大再生産で世界を支配する片棒をかつぐ「日米安全保障条約」を止めることしか、この憂鬱から解放される手段はないのだ。
世界がアメリカ中心に回り続ける限り、富は一極集中を続け、そこからはじき飛ばされた人々は、力で抵抗しようとする。それが今の日本でもずうっと続いている。OKINAWA、FUKUSIMAあるいは、日本各地の生産手段を奪われた人々の闘いだ。
日常生活空間にまき散らされるヨシモトの芸人達に責任はないが、これほどの重い下敷きの上にフワーッと軽く明るい社会を、あたかもスプレーの匂い消しや除菌スプレーのように広げられては、違和感が大きくなる。
そんな事も「浅川マキ-それはスポットライトではない」が響くのかもしれない。思いつくままに(2012.3.6)

月曜日, 2月 27, 2012

アップルから離れて行く僕の気持ちは複雑だ。

アップルのディスプレイが水槽のように魚を泳がせていた1987年頃から、そのユニークなアイデアに魅せられてきた。ちょっと厳つい初代iPodだったが、僕のコレクションだけでなく長男好みのラップや外国人の友人のCDなど、1年間聞き続けても同じ曲が演奏されないという奇跡的な音楽の楽しみ方は衝撃的だった。
モトローラからインテルにCPUが代わり、OSも変わり、アプリケーションも次々にインテル専用になっていった。最近の事で言えば、Photoshopを多用する僕は数種の関連ソフトが同封されたCS2を使っていた。自宅のPCをインテルappleに変えたらCS2は使えないと怒られた。バージョンアップに数万円かかるので廉価版のPhotoshopELを使う事にした。
こんな我慢がこの数年ときどき起こる。iPadやiPhoneでフラッシュで作られたプログラムが動作しない。あるいはiPhoneがソフトバンクだけから発売されたので、否か暮らしの僕には耐えられず解約した。
そしてツイッターからフェイイスブックに比重が移った段階の今、アップルの新OSではフェイスブックが使いづらくなりそうだという記事を目にした。全ての利用者に満足いく製品を提供しろとは言わない。しかし売り上げ増加の為に従来からの利用者が不便を感じる製品開発の姿勢は、僕の気持ちをアップルから遠ざけている。
ちなみに、googleのアンドロイドOSでドコモのギャラクシー2Sはすこぶる快適に僕をサポートしている。いまiPhoneを使う理由が見当たらない。
http://japan.cnet.com/news/commentary/35014454/

月曜日, 1月 09, 2012

小笠原諸島西之島新島付近の海中噴出の軽石

西之島新島付近のドレッジで採取した海中噴出の軽石。西之島新島は東京の南約1,000km、2011年に世界遺産に指定された小笠原諸島父島の西約130kmにある。1973年(昭和48年)4月に変色水が確認され、同年5月30日西之島の東方600mで海底火山の噴火があり、同年9月11日に新島が出現、同年12月21日に「西之島新島」と命名された。1974年(昭和49年) に東海大学の調査船に乗船し、西之島新島に上陸した。まだ多孔質の溶岩で覆われた西之島新島の温度は高く、登山靴の底が焼ける臭いが印象深かった。上陸の前後に周辺海域の海底調査を行い資料を採集した。
幅30cm高さ23cmのこの海中噴出軽石は、もう40年も室内に放置されていた。それを宗像三賢人の上野氏が、台座を造ってあげると2011年末に持ち帰り1月9日に完成品を届けてくれた。さっそく玄関の飾り棚を片付け展示した。
西之島新島海中噴出軽石(台座は上野氏作)